この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」マルコ9:22-23
私が働いている病棟は、消化器内科と眼科です。
そしてベッドの関係なのか、
時々、皮膚科の患者さんも入院されています。
先日、病院に行った時、全身まだらな色になってる方がいらっしゃいました。
そして私に「背中に塗り薬、縫って!」と言われたのです。
ナースさんに許可を貰い、背中から腰まで塗ったのですが。
この方、凄くストレスあるだろうな…と思ったのです。
痒いだろうし、痛いだろうし、
見た目も気になるだろうし、
このように私に肌を見せるのも恥ずかしいだろうな…と
思いつつ、ナアマン将軍を思い出しました。
(皮膚科の患者さんがいると、よくナアマン将軍を思い出します)
ナアマン将軍の身体も、多分、私が今目の前で見ているような
状態だったのではないか…と想像したのです。
いつも、身体が痒いや痛みがあったら、
気が休まないと思います。
ヨルダン川に入って、幼子の様な身体になって…
どれ程、喜んだだろう…
大きな悩み、ストレスが7回目、自ら上がった時に癒されたのです。
「あぁぁ…ヨルダン川が欲しい…」と思いつつ、
ナアマンが癒されたからと言って、
誰でもヨルダン川に7回入れば癒される訳ではないのです。
ヨルダン川の水の効能が、癒しの水ではないからです。
どうしてナアマンだけ癒されたのでしょうか。
聖書を見ると、主が癒しや奇跡を行なわれる時、
法則の様なものがあります!
主は癒しや奇跡を行う能力はあるのです。
問題は、その能力を使おうとされるかどうか…
主は、癒しや奇跡をおこなわれる前に、
その人の「信仰」をみられるのです。
主は、その人が地位があるなしに関係なく、
人から評価にも左右されず、身分にも左右されず、
主の基準は「信仰」なのです。
私たちは信仰を持って、一番気になる点は
自分が望む事が「主の御心」かどうかだと思います。
“これは御心だろうか”といつも悩むのです。
“この選択は主が喜ばれるだろうか?”
“主が望まれている選択はどれだろう…”
“こんなこと…求めていいのだろうか?”と
主の御心に合ったものを認めようと、まず考えるのです。
私たちは何となく「主が望まれているものを求めれば与えられる」と考えるています。
しかし、主が重要視してる事は、
「私たちが何を望むか」より「どの様な信仰で望むのか」
だと思います。
聖書をみると「癒し」以外のものを求めている事もあります。
一番先に思い出すのは、カナの結婚式です。
イエスさまの母がぶどう酒を求めました。
ぶどう酒を求め与えられているのです。
しかも、もともと準備したものより、良いものをです。
また、悪霊につかれた一人息子をイエスさまの前に連れて来た話。
「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言って
主に怒られています…
何を求めれば、主に喜ばれるか、
御心に合うものを求めようとするのではなく…
求めるものは関係ないのです。
イエスさまが、奇跡を行うかどうかは、
自分の信仰があるのかどうか…。
主は何でも求めなさいと言われる方です。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)