聖書の御言葉は教訓ではない…【民数記14:6-9】

2024年

すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子彼部とは自分たちの着物を引き裂いて、
イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

民数記14:6-9

今、自分を取り巻く環境はどうでしょうか?

すっごく快適!問題なし!と言う時より、

祈ってるんだけど… 一向に問題から解放されない。

解決の兆しが見えない…

というか、段々状況が良くない方向に向かってる…

と思う事の方が多いのではないかと思います。

今、私が取り組んでいるPTA活動。

もともと子どもが通っている学校は、

韓国にルーツのある子どもが学ぶ学校として歴史もあります。

しかし、1人の人の権力や考え、財力で

まったく違う学校へとシフトしようとしているのです。

これに対して対抗しているPTAや卒業生。

(卒業生と言っても上は90歳代!)

しかし、学校には学校専属の弁護士が何人もいます。

時間をかけて話し合いをしていますが、

話しは平行線どころか、反ってきています。

泥沼化。

弁護士を相手に私が何をする事が出来るか?

時折、自分はイスラエルの民が、

カナンの地に偵察に行き「自分たちはイナゴのようだ」と言った気持ちが分かります。

見るからに相手側は強固なのです。

相手には力があり、存在自体が自分より大きいのです。

先週の学校との会議で、今までにない程、

泥沼化したのです。

思わず「本当に自分がイナゴのよう…」と思ったのです。

それと同時に、気付いたのです。

私は聖書を読み、

民数記に書かれている記録を読み、

イスラエルの民がカナンの地に偵察に行きました。

12名が40日間、偵察したのです。

そして10名が「出来ない」と否定的な結論を出し、

2名だけで「出来る!」と言ったのです。

この差は「現実をみる」のではなく、

「主に拠る解釈」が出来たかどうか!

ダビデもゴリアテと戦う時、

その場に居た、仲間も敵も、ダビデの年齢や体の大きさを見て

「無理だ」と思ったのです。

しかし、ダビデだけが「現実」ではなく

「主に拠る解釈」に目を向けたのです。

私たちは、イナゴに見えた話もダビデの話も

よく知っています。

しかし、私は自分の人生にそれを適応できていない…

聖書の話は、聖書の話として「教訓」として受け取るだけ…

適応がない…

本来、聖書が残されている理由として

私たちが聖書から沢山主について学び、

聖書に書かれている事を

適応した生き方をする為に、存在するのです。

にも拘らず、

単なる「教訓」ぐらいの受け止め方…

私は、聖書を適応しながら読むのではなく、

教訓ぐらいの位置づけで読んでしまっているのでは…??

…12名中10名は「現実」に心を奪われています。

主に拠って解釈できたのは、わずか2名。

少年ダビデに対しては、ダビデ以外は現実を見たように思います。

…それほど、私たちは簡単に「現実」に心を奪われやすい。

主に拠る解釈が出来る人になりたい‼

約束の地に入れたのは、主に拠る解釈をした2名だけ。

現実を語った10名は、カナンの地に入れなかったのです。

主に拠る解釈‼

これからは、意識しながら日々を過ごしたいと思います‼

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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