1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。詩篇23篇
私は自分自身に時々問う事があります。
「私は今、乏しい事はないだろうか?」
一日の内に何度も同じ問いを自分にする事もあります。
「私は今、自分が乏しいと思っていないだろうか…」
この問いは「私は今、自分が豊かだと満足してりるだろうか」という問いではありません。
なんて私は乏しいんだと嘆いていないだろうかと言う問い。
多分、自分自身に「豊かで満足しているか」という問いより
「乏しいと感じていないだろうか…」という問いを自分にするのは、
私は直ぐに「乏しい…」と感じてしまうからだと思います。
私は今までに何度となく「凄く豊かな満足感」を得たことがあります。
私は頭の中で直ぐに計算をします。
長男が高校3年の時、韓国の大学に行きたいと言いました。
行きたいA大学がありました。
キリスト教の大学で神学部はないのですが、
クリスチャンとして社会で役に立つ仕事・起業をして行く人を育てる大学でした。
またこの大学を通して海外の企業に就職する人も多くいました。
また在学生たちは、賛美チームを持っており、
YouTubeを見れば、本当に今の時代を担うような
そのような賛美チームがいくつもあるのです。
「絶対にここに行きたい!!」と強い意志を持っていました。
そして合格した時は、凄く喜んでいました。
韓国の大学を受験するにあたって夫と1つ約束をしていました。
「韓国の大学の神学部を一つだけ受験すること」です。
進学するかどうかは本人が決めて良いという条件。
神学部の受験は最後で、もうA大学に心を決めていた長男は
「もう神学校受験しなくていい?A大学に絶対行くし」と言いました。
私「でもお父さんと約束したから受験はして」
そして神学部も合格。
でもすぐにA大学の手続きをしようとしました。
そして長男は「最後に祈ってからAの手続きをする」と言い
私はその時、長男はA大学に行くと思っていたし、
私はA大学は賛成だったのです。
神学校はA大学を卒業して大学院で行けるからです。
長男の「最後に祈る」というのは
どことなく形式的に感じながらも「そっか。分かった」といい
1時間後。
長男は「…神学校に行く…!!」と言ったのです。
私の中に、神学校に行くという事が、「乏しい生活」という事が
イコールになっているのが分かっていました。
しかし「神学校に行く」という思いもしない選択を
最後の最後に長男がした時、
人間的には「え…A大学入ろうと思っても難しい大学なのに…」という思いより、
何とも言えない「満足感」に満たされたのです。」
凄くお金持ちになった気分。
多分、霊的に豊かさに満たされたんだと思います。
最近、次男が「日本の大学に絶対行く!!」と言いつ付けていたのに
「大学は一から祈ってみる」と言った時、
同じような「豊かさ」に包まれました。
次男は、自分は日本の大学に行って起業をして
お金を儲け、長男の教会を建てたい!
そして自分もそこで働きたい主に仕えたいと言っていました。
私はそれに賛成していました。
次男は「自分がどれぐらい勉強が出来るのか、トライしてみたい」と言っていましたし、
それも悪くない。と思っていました。
そして私は自分の心の根底にある「乏しさ」から
解放を願っていたんだと思います。
次男がしっかり働き、経済的な問題を解決しながら
2人が協力して主の道を歩んでくれたら…どんなに良いだろうと
思っていたのです。
しかし、この、主から来る豊かさは、今までの人生で感じた事がない
豊かさなのです。
心の底から温かいものが沸き上がり、
私を包むのです。
これ以上の豊かさはない…と感じる感覚です。
私は他にもいろいろと頭で考えます。
こうした方が良いのではないか。
普通はこうするべきだろう。
この方が子どものスペックが上がるんじゃないか…
でも、いつも私の考えと主の導ぎは違います…
今日も「私は乏しくないだろうか」という問いを
自分に問うて行こうと思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)