主の働きを邪魔するもの【Ⅱ列王記5:10-12】

2024年

 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で、洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。

Ⅱ列王記5:10-12

私は、子どもの学校の事で毎日、多くの時間を使っています。

そして1日の内、何度も考えるのです。

私は間違ってないんだろうか。

主の目にどう映ってるんだろう。

私が間違った思想を持って、多くの人を先導してたら…?

どうしよう…と言う考えが浮かびます。

その反面、今目の前にある自分では解決できない

大きな問題…これはどのような結果になるんだろう。

相手は学校であり弁護士たち。

どうしたら、私の主が、私の聖霊さまが、

私を自由に使って下さるんだろう?とも考えます。

私は… 実は主が私を通して働こうとされているのに、

私が主の邪魔をしていないだろうか…とも考えるのです。

どうすれば、私は主に自由に使ってもらえるんだろう…と

考える中。

ナアマン将軍を思い出しました。

ナアマン将軍は、主君に重んじられ、

尊敬されていたと記録されています。

人間的には「かなり良い人」だったのです。

癒しを求めてエリシャに会いに行きました。

しかし、自分の思った、自分が想像した、

「多分、いやしってこうするんだろう…」という

ナアマン将軍が想像した方法とは全く違う、

方法を提示されたのです。

しかも、ナアマン将軍は重んじられ尊敬される立場の人です。

長旅をし、やっとの思いでエリシャ予言者宅に着いたのに、

エリシャは「遠い所から、ようこそお越しくださいました!」という

挨拶一つもしなかったのです。

自分のしもべに、言付けを言い渡したのです。

そしてその内容は、水質の良くない汚れた川で体を洗うというもの。

「そんなことで治るはずはない!」と感じたのです。

…私の中にもナアマン将軍の様なものがあります。

「神さまはきっと、助けてくれるはず」

「神さまは勝利を与えてくれるはず」

「これと、あれと、あれも…全ての問題を解決して…!」と

何となく自分の頭の中に「ゴールの状態」を決めてしまっているのです。

祈りがきかれる状態とは…このような状態の事を意味する…という

ゴールありきの祈りなのです。

自分が想像するゴールでない場合、

祈りは、聞かれなかった‼という結論を取ってしまう可能性があります。

ナアマン将軍にも(聖書には書いていませんが)

例えば、あの前にそびえ立つ山の頂上に行って、

水を浴びるとか、祈って来るとか、

もしくはその頂上まで往復三回行くとか…

そう言われた方が、やる気が出るのかもしれません。

だって、ツァラアトという病気は、直せない病気だからです。

川で体を洗う位では、治せない。治せるはずがない…

という思考があるのです。

大変な病気だから、こちら側としても大変な事をしないといけないのです。

どこまでも私たちは努力で何とかしようとするようです。

つまり、自分の中にある固定概念が、

主の癒しを受けさせないように邪魔をしているのです。

自分が幼子のように固定概念がなければ、

言われた通り行動できるのです。

…だから私は気を付けよう…

主がどの様に働かれるのかは、100%主に委ねる。

そして自分でゴールを設定しない!

自分が思い浮かぶ理想のゴールを持たない…

これに気を付けて歩もう!と気付きました。

主がどの様に働いて下さるんだろう…

私は自分の固定概念に気を付けながら、

心をオープンにする事を努め、日々主に祈っていこう‼

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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