主と共に過ごし歩む⑥【創世記3:5】

2024年

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる

創世記3:5

先日、韓国に住んでいる長男が、このように言いました。

「教会は清い場所ではない」

「教会はどちらかと言えば、汚く汚れている」

長男は

教会の寮に住んでいて、毎日、大学、レポート、奉仕、バイトと忙しく過ごしています。

生まれてから高校卒業まで、日本で育ち、ずっと教会中心で育ちました。

日本に居る時から、自ら奉仕を沢山していました。

今は、韓国の教会に通い、奉仕を続けて5年目になります。

教会の青年部に所属しており、先月末に国内短期宣教に行ってきました。

32名を率いるリーダーとして行ったのです。

普段はもちろん、宣教旅行中であっても

人それぞれが、自分を主張するのです。

プログラムはもう出発前から決まっているのに、

その場でプログラムを見た人が

「これはさー、もっとこう変えた方が良いんじゃないか?」

「このプログラム、明日にしたら?」

食事の時間も、「え?今?今は別にお腹減ってない…」と

1人後で食べる人もおり、

また就寝時間を守らず、夜中まで話し込んでいる男女。

「これが修学旅行なら理解できるけど… 宣教旅行中だよ…」と長男は言うのです。

そして宣教旅行前の何度も行う、準備や祈り会には参加しなかった人が

「オレは祈ったんだけどさ、こうするべきだよ」と変更を求めるのです。

「祈ったら、こう示された」

「主の答えを貰った」

「主はこんな風に望まれていると思う」

「こっちが御心じゃない?」

と口々に主張するのです…

夜中に2人で話し込む男女に、注意をすると

彼らなりの理由があるのです。

話していると思いもよらず、良い分かち合いとなった…

牧師先生が、男性の方に

「君は彼女が好きなのか? 好きなのであれば、こんな深夜に2人だけで話し込むのは、良くない。」

「君がもし彼女を好きでないのであれば、もっと良くない」と

言われた様です。

…本当にそうですね。

私たちは、いつも

「自分なりの理由」

「自分なりの正論」

「自分なりの正義」があるのです。

そしてそれらを、教会の中で「御心」だと振りかざすのです。

自分の発言、思想が正論だと主張したいのです。

だって…自分なりの理由があるから。

自分は正解を見つけたと思っているから。

…そんな事を考えていたら、

アダムとエバを思い出しました。

エバは蛇にそそのかされ、

「あなたがたがそれを食べるその時、

あなたがたの目が開け、

あなたがたが神のようになり、

善悪を知るようになる…」と言われたのです。

その言葉を聞いて、エバはその実をとって食べたのです。

つまり、神のようになりたい

善悪を知りたい…と言う思いがあったのです。

…私たちは何か困難な事にぶち当たった時…

こんな風に考えたことはないですか?

「はーーー💦 エバさえ善悪の知識の実を食べなかったら

私たちもエデンの園で生きれたのに‼」と思った事ありますよね?

アダムとエバさえ…!って。

でもよく考えて下さい。

私たちは、自分なりの理由を掲げ、

「御心」と言う言葉を盾に、

自分が正しさの基準となろうとするのです。

私たちの中に「善悪を知識の基準」となりたいのす。

時折「エバさえ…!」と思いながらも、

私たちの手は、日々「善悪の知識の木」に手を伸ばしているのかも…

私には確かな理由があり

祈った答えがある。

だから…私が正しいんだと…

教会の中でも、自分が善悪の基準となろうと

「御心」という単語まで使用するのです。

教会の中で、美しく聖いのはイエスさまだけ…

気を付けないと…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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