「自分が負うべき重荷」と「主に委ねる重荷」【マタイ10:38】

2024年

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

マタイ10:38

時々、こんな言葉を耳にします。

「もう… 主に委ねるしかない!」

色々解決方法を模索してみたけれど、

自分では解決できない…

もう、どうして良いのか分からない…

このような状況に陥った時、このセリフを良く聞きます。

ずっと違和感がありました。

どことなく、面倒な事から手を引いている様な感じ、

この違和感をどう表現すればいいんだろう…と思っていました。

そして、今日少しだけヒントを得れたように思います。

韓国の大学の恩師の言葉を思い出したのです。

「自分は、健康に凄く気を付け努している。

持ち続けている病が不安で、努力しているのではない。

主が私に下さった使命を全うする事が

出来るように健康に気を使っている。

しかし、健康は自分の思い通りにはならない。

健康が守られるかどうかは、主に委ねている。

いつの日か、主が「あなたの使命はここまでだよ」と言われるまで

主に呼ばれるまで、健康に対して努力をしながら、

自分の旅立つ日は主に委ねる」と言われていました。

その言葉を思い出し、

私たちの人生には、自分が担う重荷と、主に委ねる重荷がある…と再確認。

私たちは、生きていれば様々な出来事を体験します。

自分の人生の中で起こった事…

それらは多分、私が引き受けるべき事柄。

主が赦された私の重荷だと思います。

重荷とは、字が示すように、重い荷物。

重い荷物を持つ事は大変な事です。疲れます。

主は、重荷を背負ったものに「私に従いなさい」と言われました。

重荷は、背負うだけで終わりではなく、

背負った状態で主に従う必要があるのです。

重荷を背負うという事は、Happyと感じるより、苦労を感じます。

出来る事なら、早くこの苦労から解放されたい。

誰かに助けてもらいたい…と願うのです。

これは私を含めた多くの人が、

自然とその様に感じる感情です。

しかし、この状態で重荷を背負うと言う選択は、

重荷を「受動的」に受け止めている証拠です。

イエスさまの弟子たちは、

弟子になると言う重荷を背負いました。

しかし、弟子になった当初と、

イエスさまの復活後の弟子たちには違いが見られます。

強いられた重荷ではなく、

自らが主の弟子としての重荷を選択したのです。

重荷の受け取り方が「能動的」になったのです。

自らが喜んで主の弟子となり、

福音を伝えると言う仕事に命をかけたのです。

負わされた重荷と、自ら負う重荷には差がある。

そして大学の恩師が言ったように、

重荷を背負いながらも、その結果は主に委ねるのです。

そう思った時に、

私は、自分に与えられた重荷を背負わず、

「私の重荷は主に委ねる」という、

聞こえの良い部分だけを利用していないだろうか。

自分が負うべき重荷。

主に委ねる重荷。

これらについて、もっと黙想したいと思う一日でした。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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