人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
マタイ20:28
仕事で病院に行き始め、感じる事が沢山あります。
聖書に「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい」とあります。
その御言葉が凄く納得できるというか、
少し聖書の意味が分かるような気がします。
この御言葉の理由として
「そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者がそれに心を留めるようになるからだ。」
と書かれています。
病院やお葬式は、笑顔溢れる場所ではなく、
どちらかと言えば、悲しみが多い場所です。
先日、少し長く入院されていた方が、急変して亡くなられました。
このAさんは、80代の男性です。
長く個室で入院されていました。
接し方が難しい方でした。
いつも怒りぎみなのです。
看護師さんってメンタル保つの大変だなあ…と思います。
年配と言えども、男性ですし、怖さを感じる事もあります。
看護師さんが「すみませんが、オムツ替えるのに一緒に入って貰っても良いですか?」と。私に声をかけられました。
「手が出ることこともあるので注意して下さい」と言われていました。
この看護師さんは、何度もAさんの心無い言葉に
メンタルがボロボロ…
「私がしますよ(笑)」と私が替える事に。
「Aさん~ オムツ見せてもらっても良いですか?」
「便が出てるので、拭きますね」と言うと
「拭かせて頂きます、だろ?」と。
身体の体制を変えたりすると、痛みを感じるようで、
ゆっくり動かし「次は右足触りますよ」など声をかけてから
動かすのですが、
「痛い!」と凄い表情で睨むのです…💦
そして叩こうと手をあげます。
私が「叩くのはダメですよ!」と手を掴み、
叩かれずには済んだのですが。
しかし、部屋に居る間、ずっと暴言が続きます。
そして「ワシは金を出してここにいてるんだ!」
「何だその態度は!」…
このような患者さんは少なくないのです。
私がいる病棟に、必ず数名います。
患者さんの中には「お金を出してるんだから、
自分にはサービスを受ける権利がある」と言われる方もいらっしゃいます。
…何となく、お金を出しているんだから
「してもらうのは、当たり前」という考え方。
本当は、
お金を出して「治療やサポート」を受ける「患者さん」なのに、
お金を出して「サービス」を受ける「お客さん」だと
思われているように感じます。
「治療」を受けに来てると分かってるはずなのに、どこかで勘違いというか、
考え方が変わってしまったんだと思います。
そして、一旦そのような考え方に変わると、
私たちは、それが当然かのように思い込んでしまうんだと思います。
…私の中にもあるかもしれません。
色々な情報や時代の流れで、人の考え方や常識が移り変わっていきます。
そんな事を考えながら、
まず一番初めに思い出したのは、礼拝です。
礼拝を捧げに教会に行く時、
どことなく「お客さん」という意識がある事が多いと思います。
教会は「何かを受ける」為に行く所ではなく、
教会は「仕える」所であり、隣人を「愛する」所。
…他にも、何となく思い違いしている事があるかも…
1つずつ、考えながら。
今ある自分の考えや行動が、
主に添えているのか
立ち止まり、主の声を聞く習慣を持ちたい…
無意識に主を悲しませている事が多いかもしれません。
仲が良いと思っている友達に、
心無い一言を言われたら傷つきます。
他の人ならまだしも… あなたは私を分かってくれてると思ってた…
でもそうではなかった…?と感じるのです。
ですから、仲の良い人の勘違いや心無い一言は
悲しく感じると思います。
イエスさまも…同じ。
クリスチャンである私たち。
主を私の主だと証しする私たちの、
無意識の言動に、心を痛められているかも。
「あなたには分かって欲しかった」と
思われているのではないか…
主の価値観、主の基準、主の思いをもっと知れますように!!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)