ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
だがおまえの弟は死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」ルカ15:25-32
今日、読んだ聖書の箇所です。
放蕩息子の話。
次男がこの個所を読んで、
「長男の気持ちが分かる」と言いました。
自分は教会を休まないし、一生懸命に遅くまで奉仕したりしてるのに、
数ヶ月に一回ぐらいしか来ない友達が、忘れた頃に教会に来て、
‟俺、凄く恵まれた! 今日はメッセージは、俺の為だったみたい!”といい、
教えるようにその恵みを話すのを聞くと、
何となく心は素直に喜べない…というのです(笑)
その話を聞いて、次男の姿が想像出来ますし、
次男が素直に喜べない気持ちも分かるような気がします。
この放蕩息子の話…
私たちの常識、私たちの暗黙の基準などでは、
兄が正しいのです。
長男として働き、役目を真面目に勤めて来たのです。
そんな自分に父が何か労をねぎらってくれたり、
時には、友達と楽しい時間を過ごせと、
子ヤギ一匹さえくれなかったのです。
しかし、
親の財産を食いつぶした弟。
もしかしたら、貰った財産の金額から考えたら、
弟は凄く早く帰って来たのかもしれません。
私たちの常識では、
そのような弟は、家から勘当されても仕方ないのではないでしょうか。
指導なり罰を受けるべきです。
しかし父は、弟の姿を見て「かわいそうに思った」と書かれています。
そして、
一番良い着物・指輪・くつを与え
肥えた子牛で祝いをしたのです。
私たちの常識、善悪の判断基準など、主とは違うのです。
父親の弟に対する対応を、快く受け止めれなかった兄。
そんな兄は、怒りの感情が生じ、家に入ろうとしなかった…
すると父が家から出て来て「色々となだめた」と書かれています。
父にとって、死んでいた弟が生きていて家に帰って来たという心境だから、
お祝いをしたのです。
しかし、その父の思いに同調できずにいる兄に対して、
弟を置いて、兄のもとに駆け寄ったのです。
父は兄にも寄り添ってくれたのです。
もし亭主関白な父であれば
「兄はどうした?早く来るように言え!」というかもしれません。
父の基準とは違う兄の基準。
私も同じだと思います。
自分なりに色々と考え、判断します。
そして自分なりの正論をもって主張します。
自分の主張を持って、主に怒って祈る事もあります。
「絶対に、可笑しい…」
「絶対に向こうが悪い…」
「絶対に理不尽だ…」
「絶対に…」という思い。
自分の基準です。私の常識であり判断です。
主とは違う可能性が高いです。
私は、主の基準を知ろうとはぜず…
自分の基準で、あたかも自分が正しいと思い込み、
主に主張してしまっている事が多いと思います。
兄も、主の基準を知ろうとせず、
自分の基準で物事を判断し、怒り、傷付いているのです。
主は、ため息の1つでもついても良さそうですが、
なだめられたのです。
あなたの気持ちも分かるよ。
でも…父の気持ちも分かって欲しい。
生き返った弟を置いて、兄のもとに来て下さる父。
弟の帰りも待ちわび、ついにその日を迎え、
本当に夢ではなく、本当に帰って来たのか?と弟の側を離れずにいたいはず。
でも、その弟と離れ、兄にも寄り添って下さるのです。
あなたの気持ちも分かる…と主は言って下さるのです。
私は、父に寄り添いたい…
父に寄り添える人になりたい…
そのような神の子になりたいです…
主の基準を知る為に…聖書を読みます!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)