私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。
ハバクク2:1
先日(3/22)、ハバクク書を黙想しました。
この黙想を通して、また新たに感じた事を記録したいと思います。
ハバククという予言者は、
主が選んだ民は偶像礼拝と不正に陥り、
正しい者を虐げ生きていると主に嘆いたのです。
そして主に助けを求め続けていにも拘らず、主が答えて下さらなかったのです。
「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。」と叫んでいます。
私たちにも思い当たる祈りではないでしょうか。
祈っても祈っても、答えを得ることが出来ない。
解決の糸口が与えられない…
いつまでですか?
いつまであなたは沈黙されているのでしょうか。
いつまで、私はあなたを待たないといけないのでしょうか。
あなたは本当にいらっしゃるのでしょうか…
あなたは私を忘れられたのでしょうか…
という思い…
主は、ハバククに対して答えられました。
「私は民の堕落を知っている。彼らに裁きを起こすため、バビロンの軍隊を準備している」と。
バビロン帝国にイスラエルを滅ぼさせると言われたのです。
それを聞いたハバククは、その様な事はあり得ない!!と言いました。
その理由は、バビロン帝国はイスラエルより、もっと悪い国だからです。
もっと悪い国が、主の選民の民を攻撃し滅ぼすなど…
あり得ない話なのです。
ハバククの主張は、正しく聞こえます。
私たちの感覚では、ハバククの意見は「正当性のある主張」だと思いませんか?
このハバククの主張に対して、主は
「待ちなさい。今は理解できなくても、今は納得できなくても、私を信頼して待ちなさい」と言われました。
この答えを聞いて「なるほど!待てば良いのか!」と素直に受け入れる事は難しいです。
散々、助けて下さい!と訴え、主の答えを待っていたのです。
やっと得ることが出来た答えが、
答えらしくない答えなのです。
私たちが、願った答えではなく、想像した答えでもなく、期待した答えではなかったのです。
主の答えは、私たちが願う答えの真逆なのです。
期待を大きく裏切る答えであり、想像も出来ない最悪な答えだったのです。
…こんな答えを貰うと、私たちは「納得」できません。
このような時、私たちの高慢なが作動します。
主の答えや導きに「自分が納得」出来ないと私たちは受け入れないのです。
私たちは納得できない答えに対して「納得できる説明」を、当然のように求めるのです。
まるで、部下が企画書を出し、上司がそれに承認のハンコを押すように。
主の答えや導きに対して、私たちは無意識に「評価」してしまうのです。
主は、ハバククに、あなたが理解出来ないのも分かる。
でも待ちなさい。今、あなたは理解できないだろうけれど…と言われました。
私たちは、主をどのように待てばいいのでしょうか。
私たちは「待つ」という事が苦手です。
特に嫌な環境に身を置いている場合、一刻も早い脱出を願います。
特に今は、ショートを好む時代。
的確なポイントだけを得ようとする、主とは真逆な時代なのです。
私たちは、どのように主を待つ事が出来るのでしょうか。
それが今日の御言葉だと思います。
「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。」
見張り所に立ち、敵が攻めてくるか見張る時…
私たちはまだ、自分より遠く離れた敵の動きであったとしても、小さな情報であっても、味方に伝えるのが見張り所に立つ人の役目です。
また、見張り所に立つということは、高い場所から状況を判断するという意味です。
敵が何処から攻めて来て、どの程の規模であり、武器はなにか。
敵の動きを把握し、味方に伝える事が出来ます。
もし、高い所に立つ者がいなかったらどうでしょうか。
目の前の状況が全てなのです。
自分が不利になれば、全てが不利と判断してしまうのです。
また自分は、前から迫ってくる目の前の敵しか見えないのです。
後ろにいる自分の味方には気付かないのです。
まるで一人で戦っているかのような孤独な戦いになります。
主を待つというのは、
「じゃ、その時が来るまでゆっくりしよう」と、
少し問題を忘れたかの様な状態で待つのではないのです。
私たちは、主が働かれるのを、
見張り所にしっかり立って見続けなさいという事だと思います。
主がこれからされようとする事を、しっかりと見続ける。
自分の低い目線ではなく、主の高い目線でです。
今日も、見張り所にしっかり立ち、主が働かれるのをしっかりとアンテナをはり見届けましょう!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)