わたしはぶどうの木で、あなたがたが枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネ15:5
昔、ある牧師先生が「牧師って孤独でもある」と言われているのを聞いた事があります。
教会に通うクリスチャンの方は、
何か悩みがあったり、困った事があったり、信仰に揺れを感じたり…
その様な何かピンチな時に、
牧師や同じ教会のリーダーに、自分が心を開こうと思えば、誰かに相談できます。
でも牧師がピンチな時は、誰にも話しができない…
教会に来る信徒さんに、「最近、神さまとの関係が…」とは言えない。
結局は神さまにしか話が出来ない。と言われていました。
そんな話を聞いた時から、私は、イエスさまは地上で過ごされた時、誰と一緒にいる時に、少しホッと出来たのだろうか…
と考えていました。
ずっと思い出す度に考えるのですが、まず思い出すのは、
マルタ、マリヤ、ラザロ…
この兄弟と親しくされ、愛されていたと聖書に書かれています。
…イエスさまの周りには、常に沢山の人がいました。
人々がイエスさまを一目見ようと、癒しを受けようと「イエスさま」「ダビデの子よ」と集まっていたのです。
しかし、それは「受けよう」という思いで、主のもとに集まっていたのであって、
主がピンチな時(人間的な視点で)は、誰一人共に居てくれなかったのです。
十字架に架かる時、イエスさまは一人だった…
今まで「イエスさま!」と切に願い求めていた人たちも、
また癒しを受けた人達も、
弟子たちも、
全ての人が主のもとを離れてしまった。
イエスさまに寄り添う人はいなかったのだろうか…
イエスさまは人間の姿をとられ地上に来られたので、
人間のように空腹を覚えたり、のども渇き、涙する事もあり…
自分の周りには常に人が押し寄せていたけれど、全ての人が「自分が受けるため」であり、
イエスさまが孤独な時は、誰一人寄り添って貰えなかった…
と思うと、凄く悲しくなります。
夫にこの話をすると、「弟子の中ではヨハネが近い存在だったのでは?」と。
ヨハネは(兄のヤコブも)気性が荒く「雷の子」と呼ばれていました。
ある時、サマリア人の村に伝道に行った時、歓迎されなかったことに怒り、兄のヤコブと共に
ヨハネは、主と共に過ごす事により、気性も性格も、整えらえていったように思います。
ヨハネは、どうしてこのように整えられ変えられたのか。
ヨハネは、イエスさまが十字架にかけられた時、傍で見守っていました。
イエスさまの復活を聞いて、誰よりも早くお墓に駆け寄よったのもヨハネです。
また、生涯伝道をし、天寿をまっとうしたのです。
ヨハネはイエスさまと出会い、変えられたのです。
雷の子とまで呼ばれたヨハネ。
どのように変えられたのでしょうか。
ヨハネは「ぶどうの木の枝」となったのではないかと思います。
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!