ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。主は彼らとともにおられた。
ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は以前はルズであった。
見張りの者は、ひとりの人がその町から出て来るのを見て、その者に言った。「この町の出入口を教えてくれないか。私たちは、あなたにまことを尽くすから。」
彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。士師記1:22-25
今日、聖書を読みながら、凄く大切な事を学びました。
私たちが、主が与えようとしている祝福を受け取るために大切なこと…
主が与えようとしている祝福は、
私たちが全て受け取る事も出来るし、
受け取らない事も出来る。
また少しだけ受け取る事も出来る。
それを決めるのは私たち側にあるという事…
今日の御言葉は、
主がイスラエル人にカナンの地を与えられ、それを征服していく過程です。
主はイスラエル人に対して、
先住民であるカナン人を全て追い払いなさい。彼らと交わってはならない。契約を交わしてはいけない。口約束をしてはいけない。と言われていました。
しかし、イスラエルの民は征服していく過程で、全てのカナン人を追いはらわず、一部の人を生かしたのです。
それが今日の御言葉の部分です。
イスラエルの民は、カナンの地に入るために、見張りの者に町の入り口を教えてもらい、その見返りとして見張りの者たちの安全を約束したのです。
結果的には、イスラエルの民はベテルの地に入る事が出来、また征服出来たのです。
主がカナンの地を与えると言われた言葉は成就しました。
しかし、イスラエルの民は、主が言われた通りに従順せず、征服したのです。
主は、全てのカナン人を追い払うように、口約束をしないように言われました。
しかし、イスラエルの民は、口約束をし、また一部のカナン人を生かしたのです。
どうしてでしょうか。
農耕民族であったカナン人は、これからこの地でイスラエルの民が国を建てていく中で、
必要である。役に立つ。と判断したのです。
これは、主の言われた事ではありません。
結果的に征服できましたが、征服する過程で、
イスラエルの民は、主が言われた通りではなく、
自分達の考えや、自分の常識、自分の知恵、自分の価値観…などを働かせてしまったのです。
主が言われた約束、ビジョンの過程で、イスラエルの民はカナン人と口約束を交わし、簡単な方法を征服していく事を選んだのです。
イスラエルの民は、御言葉に従順に従うことより、
効率よくてい入れる事が目的になってしまったのです。
主のビジョンが成就するまでの道のりを妥協したのです。
結果的にはカナンの地を征服でき、主の約束が成就したように見えます。
しかし、本当に主が与えようとしている祝福を100%受け取れたのでしょうか。
34節を読むと、
「エモリ人(カナンの地に住む人)はダン族(イスラエルの民)を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。」とあります。
もともとの主の祝福は、
イスラエルの民による、カナンの地の全征服です。
しかし34節では、エルサレムの民がカナン人から圧迫を受け追いやられています。
本来ならば、エルサレムの民がカナン人を圧迫し追いやる予定でした。
主の約束とは違い、立場が反対になっているのです。
イスラエルの民は、主の祝福を全て受け取れていないという事が分かります。
イスラエルの民は、主の言葉に100%従順出来ませんでした。
それにも関わらず、その中にも主の導きはあったのです。
しかし、100%の祝福を受け取る事は出来なかったのです。
主は、プロセスを見られるという事が分かります。
どこまで従順出来るかを見られる…
主は民に武力による征服ではなく、信仰による征服を望まれていたのです。
私たちも、信仰生活に妥協してはいけない…
表面的な約束の成就の道を歩むのではなく、信仰により成就の道を歩むべき…
主の祝福を完全に受け取るために、
私たちは、主の御言葉を知るべき。
今日も、聖書を通して主が私に語られる事に耳を傾ける事が出来ますように…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」