わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ41:9-10
道を閉ざされた事はありますか?
主が約束して下さった…
もしくは、これが主が与えて下さった道である…
これが自分に与えられた使命…
だと思っているのに、道が閉ざされる事があります。
私も何度もありました。
これは、私が願う道ではなく、主に導かれ進もうとしている道なのに、道が閉ざされる。
人に福音を伝えるという、マイナス要素がないような事でも閉ざされる時があります。
または本当に主に願って願って歩んでいた道が、道半ばで閉ざされたりもします。
どうしてでしょうか。
私たちは、こんな時、本当に「主よ。どうしてでしょうか??」と問いただしたくなります。
この道を塞ぐ理由が分からない。
そして私たちは、これは主ではなく悪の攻撃を受けているのか…?という思いが頭を過ぎります。
それについて祈っても主の音沙汰もない。
そうなると、「主は本当にいるのか…?」と私たちは不信仰な思いが出てくるのです。
「主よ。御心だと思ったのは私の勘違いだったのでしょうか?」
「主よ。どうして道を閉ざされるのでしょうか? 私に何か良くない思いがあるのでしょうか?」
「主よ。私はあなたの時がまだ来ていないのに、私が急いで進もうとしているのでしょうか?」
「主よ。私に答えて下さい! 答えて下さらないと、私はどうして良いのか分かりません…」
「主よ。悲しいです。私に教えたい事があるなら私に教えて下さい」
と涙を持って祈った事が何度もあります。
その度に、今日の御言葉が与えられました。
主が私を地の果てから呼び出し、私を選び捨てられなかった。主が共に居る。主が私の神であるから恐れる必要がなく、主が守って下さる。
私の答えを求める祈りとは違う内容の返事…
…だから…?という思いがありました。
最近もその様な事があり、「まだ主の時ではないのかな…」と手放そうとした時、
またこの御言葉が与えられたのです。
どうしていつもこのような少し的が外れた答えなんだろう…
でも今回はこの御言葉の中の「わたしはあなたとともにいる」という部分に目がとまりました。
主は私と共に居られる。
私は?
私は今日も、この瞬間も主と共に居ただろうか?
私の目に道が閉ざされたように感じた時、
私の祈りはいつも「私は…」「私」「私」だったことに気付きました。
主の関心は、私が何をするか。私がどの様な事をするか。私が主に従うか。という以前に、
私は今、誰といるか。
だという事に気が付きました。
「あなたは今、誰といるのだ?」
「私は今、あなたと共にいるのに、あなたは目先の道ばかりに気が取られている。」
「私は直ぐ横にいるのに、あなたは私に気付かず、自分が進む道を眺め、‟主よ” ‟主よ”と私を呼んでいる。私はあなたの前、ずっと先に存在するのではなく、あなたの横に存在する」
と言われている様に感じました。
「主は私と共に居る」という事は、小さい時から母に何度も聞きましたし、教会でも何度も聞きました。
しかし私は、その言葉だけ知っているだけで、現実のものとして受け取れていなかったのです。
いつも遠くを見上げて祈っていました…
遠くにいる神さま。
神さまは私と共にずっといて下さったのに、
私は神さまと共にいなかった…
ずっとそれを語ろうと御言葉が与えられていたのに、
それに気付くのに何年もかかってしまった私。
多分… こんな事って多いんだろうな…
主は私に何も語ってくれていない…という事もあるでしょうが、
私が気付かない事も多いと思います…💦
今日も、心を落ち着け、隣にいる主と共に歩む一日となりますように…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」