—これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである—
士師記3:2
もしも、私が神さまだったら…
神のもとに立ち返り、悔い改め、クリスチャンになった人を、悪から守りたいと思います。
悪の誘惑や、罪、悪い考えから遠ざけ、清く変えられた者としたい。
まさしく、詩篇91:4-5の御言葉のように。。
「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大楯であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。」
もう二度と、罪の奴隷とならないように。
自分の犯した罪に不安な日々を過ごさないように。
死からの不安に怯えて生きる事がないように…
特別に守る… そうすれば主の保護を求め、悔い改め、立ち返りたくなる者が多く起きるのではないでしょうか。
しかし、私たちの主は、その様にされませんでした。
主を信じても信じなくても、罪の誘惑に遭い、時には死に対する不安に苛まれて生きているのです。
何となく、効率が悪いように感じます…
しかし、士師記3章を見ると
「戦いを教える為に、残しておいた」とあります。
クリスチャンになって、何事も起こらない守りの中で過ごすのではなく、
信仰の戦いをしなさい。
信仰の戦いをする為に、困難を残しているのだ。という意味だと思います。
信仰の戦いとは、
今まで主を知らなかった価値観や基準と、主から頂いた価値観や基準の戦いです。
私たちの価値観と、主の価値観は正反対な事が多いです。
代表的な違いとして思い出すのは「敵を愛する」という主の基準です。
私たちの常識では、敵は愛するものではなく、排除するものです。
敵を許す事があったとしても、愛するという事は出来ないことであり、
愛そうという発想より、憎みの感情が当然のように先立ちます。
また聖書を読むと、
主には法則があるようで、主は小さい者を選び使われます。
ダビデは8人兄弟の末っ子で羊飼いでした。
モーセも殺人を犯し、人目を避けて生きていましたし、口下手でした。
私たちの常識では、聡明でリーダーシップがある人がリーダーに適任だと、違和感なく選びます。
私たちの常識、価値観は、主が基準とされているものから大きくかけ離れてしまっているのです。
私たちは、クリスチャンになってもこの世で生きるのです。
この世の価値観で動いているこの世界で生きて行くのです。
しかも、私たちはクリスチャンになっても以前の価値観から、スイッチ一つで価値観が入れ替わるのではありません。
以前の価値観を脳も感情も記憶しています。
ですから、懸命に私たちの発想とは真逆の、主の価値観を学ばないといけないのです。
自分が出会う問題を通して、
「これでいいのだろうか」「主はこれをどの様に思われているのだろうか」という思いが生じるのです。
今まで行っていた解決方法に疑問や葛藤を覚えるのです。
これが信仰の戦いです。
信仰の戦いをして、主の価値観を覚えるため、習得する為、主は戦いを残されているのです。
この戦いを通して、私たちは葛藤し苦しさを感じます。
主に依り頼むしか方法がないのです。
苦しさを残されるのは、私たちが主に依り頼む為なのです。
葛藤しながら苦しい思いをしながらも、主を選ぶという事を望んで居られるのです。
もし、私が神さまで、完全に悪や誘惑を取り除き、葛藤がない人生を歩んだとすれば…
人々は神さまを忘れると思います。
寄り頼む必要がないからです。
苦しみがないと私たちは主を忘れてしまうのです。
私たちは、主から凄く離れてしまっており、
歪んだものを身に付けてしまっているようです。
例えば、私たちの「反抗期」
反抗期とは、精神発達の過程で、他人の指示に対して拒否、抵抗、反抗的な行動をとることの多い期間。子どもから大人へと成長する過程で誰もが通るものとされている。
反抗しないと、精神が発達しない…
よく考えると不思議な話だと思いませんか。
エデンの園で暮らしていれば、このような反抗する事によって精神が発達するという過程はないように思います。
主から離れ生きて行く中で生まれたもの(歪んで来たもの)ではないか…と思います。
主から遠く離れて生きて来た私たちには、苦難や苦しみが必要なようです。
苦しみがないと、私たちは主を忘れてしまう…そのような歪んだ状態になってしまっているんだと思います。
信仰の戦いは、
より主を知っていく道です。
主の恵みを体験できる道です。
主の愛を貰える道です。
今日も、主に依り頼み、主を見上げて生きて行きましょう!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」